知的障害者の佐々木真由美さんは、セックスしたくない理由は?

キスはしたいけど、セックスはしたいと思わない

「キスはしたいけど、セックスはしたいと思いません」二十五歳の佐々木真由美さんは、食品メーカーに勤める軽度の知的障害を持った女性だ。グレーのフレームの眼鏡をかけた涼しげな目元と、小さな口元が印象的である。真由美さんには交際している恋人·今村浩司さんがいる。三十三歳の男性で、ごみの仕分けの仕事に就いている。彼も知的障害者だ。障害者のための自立支援施設に暮らしている。ファッションはいつもふたりで話しあって、コーディネートを統一している。

彼らは交際五年目だが、今まで一度もセックスは最後までしていない。浩司さんが週末に実家に帰ったときに、二階の部屋で裸になって互いの体を触りあうだけだそうだ。セックスは真由美さんが拒んでいる。真由美さんは言う。「本当は私も入れて欲しいんだけど、〝さわりっこ〞の途中でもうやめようと言います。もしも、私が入れて欲しいって言えば、彼は我慢できなくなっちゃうから。彼に触られることで先に私がイッて、それから私の手で彼がイキます」浩司さんに辛くはないのかと尋ねると、曖昧な笑顔を見せるだけだ。

真由美さんはどうしてセックスをしたくない

真由美さんはどうしてセックスをしたくないのだろうか。「子どもができたら、お母さんにも、彼の両親にも、職員さんたちにも申し訳ない。お母さんには、いつも『子どもができたらどうするの。もし子どもができたら、もうあんたなんて知らないからね』と言われています」妊娠の心配があるなら、避妊をすればいいと思うのだが、「コンドームをしていても、破けたら困るから」と真由美さんは心配なのだそうだ。

それほどまでに抵抗を見せる真由美さんだが、実は経験がないわけではない。これまでに、六人の男性と交際し、そのうちの三人とセックスをした。一方、浩司さんは経験がない。真由美さんは、セックスを拒否していることで、浩司さんが他の女性と浮気しないか心配なのだという。

妊娠の心配以外にも、抵抗を持つには何かきっかけがあった

妊娠の心配以外にも、抵抗を持つには何かきっかけがあったのだろうか。「以前、お母さんにセックスしたことを打ち明けたことがありました。隠しておくのが嫌だったから。そうしたら、ものすごく怒られました。結婚するまでしちゃいけないって。お母さんに見捨てられたら、私、生きていけないから」

真由美さんが中学生のときに父親は白血病で亡くなり、母親と妹と三人で暮らしてきた。近いうちに、ふたりは結婚したいと望んでいる。しかし、両方の家族の反対があり、とりあえず同棲することにした。ふたりはいつか子どもが欲しいと願っているが、「子どもは絶対に作っちゃだめだ」とどちらの家族からもきつく言われているそうだ。同棲をしたらセックスするのかを尋ねると、真由美さんは言い切った。「いいえ、しません。一緒に住んでも、正式に結婚するまで絶対にしません」

女性客の指定した場所に出張し、性的サービスを行う出張ホストクラブ

明日は恋する王子様がやってくる

前日は一日中、鏡に向かう。ネイルアーティストを呼び、色とりどりに爪を塗ってもらう。丁寧に紅を引き、目の上には今年流行の色を入れる。この日のために雑誌で最新のメイクを研究している。それからは、何度も「おかしくない?」と周りの人に確かめる。外出する機会が少ないので、これでいいのかどうか世間の基準がよくわからず、不安なのだ。念入りに風呂に入り、着る服を選ぶ。明日は恋する王子様がやってくる。

彼は午後四時ごろ、家にやって来た。両親も公認の仲だ。まずは、ゆっくりと一緒に風呂に入る。湯船につかり、近頃あったことやドラマの話などとりとめのないことをのんびりと話す。スポンジに泡を立てて、丁寧に体を洗ってくれる。風呂から出ると、体を拭いてもらい、お姫様抱っこで、ベッドまで運んでもらう。彼は力持ちだから、軽々と持ち上げてしまう。そっと彼女の手を取り、優しく髪をなでる。ふたりは時間をかけて、ゆるゆると結ばれる。

いつも片想いで終わり、恋が実ることは一度もなかった

彼女は王子様のことが大好きだ。手を握ってもらうだけでも嬉しいし、顔を見るだけでもホッと落ち着く。今まで出会ったなかで、最高の男性だ。これまでにも恋をしたことはあった。しかし、いつも片想いで終わり、恋が実ることは一度もなかった。テレビドラマを見ても、「こんな世界があるんだ」と遠い異次元のことのように感じていた。

「今度はどこかへ遊びに行ってみようよ」彼が低い声でささやく。一緒に出かけられたら、どんなに楽しいだろうか。胸は高鳴る。そして、あっという間に二時間がたってしまった。週に一、二回しか会えないのがとても寂しい。「またね」爽やかに言葉を残して、王子様は帰って行く。魔法は解けてしまった。彼女の王子様、それは出張ホストである。

彼女の王子様、それは出張ホストである

出張ホストクラブというのは、男性が女性客の指定した場所に出張し、性的サービスを行う風俗店のことを指す。もちろん、デートだけで終わる人もいるかもしれないが、通常の店舗型のホストクラブとは違い、客はあきらかに性的サービスを求める女性が多い。

都内で営業する「セフィロス」のホストを指名するためのファイルを見てみると、年齢や顔写真などと一緒に、「得意技」や「性器の長さ〇〇センチ」などという項目がある。十八歳から五十七歳まで約二百人のホストの登録があり、ほとんどが本職を持っている。ホストの登録料は三万円。四年間登録していても、一度も仕事のない人もいる。このホストクラブが特異なのは、障害者の客には割引があることだ。通常は一時間一万円の料金が、障害者であれば一時間五千円になる。

障害者のお客さんの場合は、店の取り分はゼロです

オーナーの吉良仁志さんによると、「普段は店とホストと分け前は半々でやっています。ですが、障害者のお客さんの場合は、店の取り分はゼロです。出張ホストはあまり人に誉められるような商売ではありません。こんなことくらいしかできませんが、社会のために少しでも役に立てばと思い、障害者への割引を始めたんですよね。なんていうか、人生の帳尻を合わせている感じでしょうかね

吉良さんにはホストの経験はない。大分県の高校を卒業後、東京でとび職の仕事をしていた八年前にその仲間とホストクラブを始めようと思いついた。ホストのイメージとはほど遠い、アウトドア派といったいでたちである。実際、釣りが趣味で、世界のあちこちに釣りをしに行っている。店のホームぺージの壁紙には、ホストクラブにはあまり似つかわしくないような、かわいらしい魚のイラストが使われている。口コミだろうか。あるときから、障害者の客が増えてきた。しかし、障害者に接した経験のないホストではなかなか対応しきれない。そこで、知り合いだった障害者ボランティアの経験のある男性をスカウトしてきた。

二級の聴力障害者である女子大生は、障害者専門の風俗嬢になろうとしている

自由の女神が欲しいよ!

さっきから彼女は手のひらに「人」の字を書いて、飲み込んでいる。緊張する彼女に、「人という字を手のひらに書いて飲んだら大丈夫かもよ」と私が言うと、「そんなの効かないよ~」と答えながらも、「でも、一応ね」と手のひらの文字を何度も飲み込み、大きく深呼吸をした。それから、「目覚まし時計、ゴミ袋、洗浄綿、ローション、バスタオル、コンドーム、そしてホワイトボード」の「七つ道具」をかばんの中に点検する。歯磨きは途中のドライブインですでに済ませていた。

待ち合わせ場所の両国を出発したときは元気いっぱいだった。車中では、ダイエットのためにプリンをあきらめたことや、体育の授業で倒れたときにかっこいいと憧れていた柔道部の先輩がおぶってくれて、携帯電話のメールアドレスを交換したことなどを嬉しそうに話していた。私が「仕事でニューョークへ行くからお土産を買ってくるよ」と言うと、「じや、自由の女神が欲しいよ!」と素っ頓狂な声をあげた。それから、空を見上げて、「わあ、あれ一番星だよね」とはしゃいでいる。大きな目をくりくりさせながら、表情は明るかった。

「緊張するよお」と彼女は何度も不安を訴えるようになった

しかし、出発から三十分、高井戸インターを通りすぎるころから、「緊張するよお」と彼女は何度も不安を訴えるようになった。「お客さんかっこいい人だといいね」私はホワイトボードに書いた。彼女は「うん、そうだと嬉しいな」と真顔で答えている。八王子第二インターを降りた頃からは、無口になり、とうとう顔を背もたれに埋めてしまった。「やっぱりそんなに不安なもの?」と私は尋ねる。「どんな人かなあって……。相手が障害者だからってのもあるかも」目的地の前に着くと、運転をしていたオーナーが車を止め、ホワイトボードに、「ササキさん、脳性麻痺、言語障害」などの情報を書いていった。「お店の常連客。だけど、それは言っちやダメ」「お金は先に出してもらうこと」「ゴミは持ち帰るように」「出るときにメール。この辺にいると思うけど」「仕事という事を忘れずに。でも、楽しくやる事。ユリナちゃんがつまらないと、相手も楽しめないです」

それから、「おしっこは大丈夫?」と書くと、彼女·ユリナちゃんは「うん」と大きくうなずいた。それでも、「不安だよおぉぉ」と大声で訴え、今にも泣き出しそうだ。オーナーは「ただのスケべオヤジ」とホワイトボードに文字を書き足し、ニヤッと笑った。そして、「じゃあ行ってくる」と意を決したように、彼女は車を下りた。今日は彼女の初仕事だ。「ユリナちゃん」という名前のデビューの日でもある。東京近郊の県に両親と一緒に住んでいる二十歳の大学二年生。青いストライプのシャツに髮の毛を止める飴色のクリップをつけ、ブーツカットのブルージーンズをはいている。ごく普通の大学生にしか見えない。上向きの鼻にくりくりした丸い目、下唇がぽってりしている。

彼女は今、障害者専門の風俗嬢になろうとしている

彼女は今、障害者専門の風俗嬢になろうとしている。所属しているのは「enjoy club」という障害者専門のデリバリーヘルスだ。そして、彼女も耳がほとんど聞こえない一種二級の障害者である。障害者専門風俗店というものができたのはいつ頃からだろうか。二〇〇〇年二月十七日付けの朝日新聞西部本社版に、こんな記事が出ている。

手や足に障害のある人を対象に、女性コンパニオンが性的サービスを提供する―こんな新手の風俗店が福岡市と東京で開業した。客層を身体障害者に限った店は例がなく、店側は「タブー視されてきたニーズにこたえた」としている。「身障者の自由を広げる試み」と評価する福祉関係者がいる一方、身障者団体は「障害者を食い物にした商売」と反発する。風俗業自体が女性を踏み台にしている点にも疑問の声がある。福岡市中央区の「ビアン」(津野喜樹代表)と東京都渋谷区の「エンジェル」(結城薰代表)。ともに改正風営法に基づく無店舗型性風俗業として警察に届け出て、ビアンは昨年十二月一日、エンジェルは一月十七日に開業した。

障害者でも性欲がありますが、性のボランティアをやってみませんか?

障害者でも性欲があります

「障害者でも性欲があります。よかったら性のボランティアをやってみませんか」男はインターネットの掲示板に書き込みをした。何通かのメールが来たが、「障害者がセックスだなんて贅沢だ」というような誹謗中傷が大半だった。掲示板を見てメールをくれた人のうち、実際に会った女性はふたりだ。ひとりは、二十三歳のパソコン専門学校の女性で、一度会って話をしただけで、性のボランティアは断られてしまった。もうひとりは、二十二歳のOL。「当たり前のことだから私が手伝います」とメールには書いてあった。

その数日後、男性はOLと会い、そのままふたりは池袋の障害者トイレに吸い込まれていった。時間がなかったのか、それとも割り切っているのだろうか。OLの女性は恥ずかしがることもせずに、手早くブラジャーをはずし、便座に座った。男は車いすに座っているので、こうするとちょうど高さがあうのだ。そして、男の性器に添えた手を素早く動かしはじめた。「口で舐めて……」男は頼んだが、それは拒否された。

挿入はしないという約束はあらかじめしていた。それはわかっていながらも、入れたいという気持ちがわいてきた。しかし、「ホテルならまだしも、こんな場所で」と思い、言葉にできなかった。外に出ると、空が青かった。連休明けの街はごったがえしていて、幸せそうに見える人々は皆どこかへ向かって足早に歩いている。男は母親が迎えに来ているのを目の端で捕らえた。彼の名を伊緒葵さんという。ふたりはそこで別れた。トイレに入ってから、たった十五分後のことだった。それからは一度も会っていない。

性のボランティアを受けた伊緒葵さんのこと

性のボランティアを受けた伊緒葵さんは一九六七年生まれの男性だ。生まれつき脳性麻痺であり、手足が不自由で、車いす生活を送る。食事から排泄まで全介護が必要な重度の身体障害者だ。手足や顔が不随意で動き、言語障害も重い。彼の言葉は慣れない人であれば聞き取るのが容易ではない。たとえば、「セックスボランティア」という単語を彼の言葉通りに再現すると、「セェェェェ…ウォォ…ク……スゥゥゥゥゥ、ボォォラアアアアア、ンティンティ…ァアア」という感じだろうか。私も何度も何度も聞き返さなくてはならなかった。葵さんは手足が不自由なため、電子メールは、あごの先端でキーをたたく。これでは数行の文章でも打つためには数十分かかってしまうが、インターネットを始めたことで彼の人生は一転した。

実は、池袋のトイレでしたような体験ははじめてではなかった。一九九七年、パソコン通信の掲示板に、障害者の性の悩み相談に乗っている主婦がいた。山本小百合さん、当時三十六歳だ。あるとき、彼女がマスターべーションの介助を申し出る書き込みをした。それを見て、葵さんはメールを送った。十回ほど性についての相談のメールをやり取りして、ふたりは会うことになった。

なぜ障害者に対して性の介助をしよう

当時、葵さんは実家を離れ、都内の施設の四人部屋に入っていた。そこに小百合さんが、夫と子どもふたりを連れてやってきた。気を遣ってくれているのだろうか、小百合さんの夫は子どもを外に連れ出して遊ばせている。夫は性のボランティアのことは知らず、パソコンを教えるボランティアを小百合さんがしていると思っていた。施設の前にある喫茶店に入り、小百合さんとふたりで話をした。「なぁぜ障害者に対して性のぉ介助をしようと思ったのぉですか」葵さんはそれが一番知りたかった。小百合さんは、「私も体を壊して入院したことがあったんです。そのときに、障害を持った方も性を経験したいはずだということに気がつきました」

遠くから子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくる。小百合さんは本気なのか、からかいなのか。葵さんにはまだ判断がつかなかった。葵さんは恋愛をしたことはある。二十四歳のときに恋人ができて、キスや抱擁は経験していた。あるとき、挿入を試みたが、入れたとたんにうまくできずに抜けてしまった。それも一回だけのことだった。その後も性器を愛撫してほしい、セックスしたいという気持ちを恋人には話したが、結局は受け入れてくれることはなかった。女性はわかりにくいと彼は思っていた。

小百合さんからの性の介助を受けた

しかし、小百合さんは本気だった。それから三力月後、葵さんは埼玉県にある小百合さんのマンションの一階にあるゲストルームにいた。住人が集会やサークル活動をするときに使用するスぺースだ。八畳の和室が二間あり、半日七百円で住民に貸している。

葵さんは、施設には外出の理由を「友だちとの昼食」と説明し、タクシーでやって来た。小百合さんは部屋の鍵を閉めた。葵さんがよだれをたらしている姿を見て、小百合さんは少し抵抗感を持ったという。しかし、もう引き返せないとも感じていた。そして、着ていた服をスルリと脱いで黑いショーツ一枚になり、Eカップの豊かな胸をあらわにした。葵さんはすでにズボンの前を大きく膨らませている。葵さんは不自由な顔を左右に必死に振って、がむしゃらに乳首を吸った。小百合さんは全裸になり、葵さんのズボンのファスナーを下ろし、手で射精に導いた。手で触ってから、十秒くらいしか経っていなかった。

ふと目をやると、射精を終えたばかりなのに、性器はすでに力強く起立している。葵さんは「もう一度して」とかすれた声で言った。小百合さんは再び彼の性器に指の短い小さな手を添えた。葵さんは時間の感覚がなくなっていくようだった。その晩、小百合さんにはこんなメールを送った。「今日は貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。やはり疲れましたか?またぜひお願いします」そのときの感想を葵さんはこう語る。「自分が射精するところをぉ初めて見ました。手が不自由だぁったので、マスターべーションをしたことはそれまでになかった。三十年あまり、夢精しか経験したことがなかったのぉです」

脳性麻痺の障害者としての竹田さんは初めて女性とセックスをした

脳性麻痺障害者の竹田さんに会った

あたりには消毒薬のような匂いが漂っている。十畳ほどの部屋は手前が床張りで、奥が三畳くらいの畳敷きになっている。事務用でよく使われているねずみ色の棚があり、その上には尿瓶が置かれている。ここに竹田芳蔵さんは三十年近く暮らしている。彼は言いたいことを文字盤に書いて用意してくれていた。

たとえ てあしがうごかなくても にんげんのおとことしての よくぼうがあるかぎりはけいざいのゆるす はんいの ことであれば それによって ひごろの ストレスをはっさんさせ あすへの いきる みなもとにするなら それなりのいぎの あることとおもう

竹田さんには声がない。気管切開を三度も繰り返し、喉に穴をあけてそこから酸素を吸入している。一時間半に一度は痰の吸引と、酸素ボンベを交換しなければいけない生活である。何かを話そうとしても、わずかにもれるゼェーゼェーという息の音が聞こえるだけだ。顔を近づけて何度か繰り返し聞いている と、その息が言葉だということがわかる。ただ、何を言っているのかはほとんど理解できない。そこで、車いすの卓上に置かれた文字盤を使って会話することになる。しかし、それも手が不自由で震えるため、なかなか目的の文字にたどり着かない。一文字押すのに数分かかることもある。これだけ書くには、かなりの時間がかかったに違いない。私はゆっくり一文字一文字確かめるように、竹田さんのこれまでの性体験について話を聞いていくことにした。

竹田さんは五十歳のときに、初めて女性とセックスをした

竹田さんは五十歳のときに、初めて女性とセックスをした。池袋の風俗店を回り、十五軒断られ続け、十六軒目でようやく受け入れてくれるところが見つかったのだ。このまま女性を知らずに死にたくない。そう思って、施設の職員に頼んでつれて行ってもらった。店の女性は二十四歲くらいのように見えた。初めて見る女性の体は本当に美しかった。しかし彼女は竹田さんの体を見ると、おびえたように顔をゆがめ、次に哀れむような表情をした。竹田さんは悔しくて、また自分が情けなくて、「このまま帰りたい」と思った。しかし、わざわざ人目を忍んで連れ出してくれた職員に悪いからと、最後まで続けたという―。

「初めてのセックスはどんな気分でしたか」と私は尋ねた。文字盤には「(性器を)いれさせてくれたのはおなさけ」「どーじょーして」という文字が並んだ。そして、切ないように顔をゆがめる。彼が行った店は、ファッションヘルスといって、主に性マッサージを行い、本来は性交はしない。しかし、店の女性が「障害者だから」と同情して、挿入もさせてくれたそうだ。竹田さんは屈辱的だと思いながらも、はじめて女性の肌に触れられたことに心打たれた。しっとりとして、柔らかく、母におぶわれた幼い日が思い出された。

幼い日が思い出された

現在、竹田さんは障害者年金をやりくりしたお金で、年に一回正月か誕生日に、吉原のソープランドへ行くことを楽しみにしている。竹田さんは、二十四時間寝ている間も離さない生命維持装置の酸素ボンベを、そのときだけは外すことに決めている。二時間の行為の間、大きな二本のボンベは邪魔だからだ。

「いき は くるしい おっぱいに こども のように むしゃぶりつくのが すき」死んでしまうリスクもある。「そのとき は そのとき せい は いきる こんぽん やめるわけ にはいかない」竹田芳蔵さんは一九三二年(昭和七年)、栃木県に生まれた。生後まもなく新生児黄疸にかかり、脳性麻痺と診断される。幼い頃から手足が不自由だった。姉ひとり、兄ひとりの三人兄弟の末っ子だ。父親は、竹田さんが母親の胎内で九カ月のときに病で亡くなっていた。竹田さんの人生は、戦争をはじめ、昭和という時代に翻弄されてきた。一九三七年(昭和十二年)七月、母方の叔母を頼り、一家は中国·大連に渡る。竹田さんが大連で初めて目にしたのは、雨にもかかわらず、道を埋めつくす百人以上の群集であった。ちょうどその月に、盧溝橋事件が起こり、八年にも亘る日中戦争が勃発した。

竹田さんは障害を持っていたため、学校に一日も行くことができず、姉や兄の教科書を見て、独学で文字を覚えていった。当時、肢体不自由者のための養護学校は日本に一校しかなく、障害者が教育を受ける機会は少なかった。さらに、その養護学校に軍人がやってきて、青酸カリを配布したという噂まで飛びかった。「働かざるもの食うべからず」と言われていた時代に、障害者の置かれていた立場はことさら弱かった。

大連に移住した四年後、真珠湾攻撃が起こり、太平洋戦争に突入した。兄は大連から列車で七時間ほどの場所にある奉天の部隊に出征し、南方で戦死した。出征の前日、「芳蔵ともお別れだから、よく洗ってあげるぞ」と一緒にお風呂に入ったことが竹田さんには忘れられない思い出になっている。父親の顔を見たことがない竹田さんにとって、兄は父親のような存在だった。

そして終戦。その日、大連は抜けるような青空で、一日中暑かったという。それからは、ソ連が侵攻してくるとか、「女、子どもが殺される」「男は全員シベリアに連れて行かれる」という噂が飛び交い、恐怖から女性は坊主頭にした。竹田さんの家には略奪者も侵入し、家財道具から兄の遺品まで持っていかれてしまった。逃げることのできない竹田さんは真っ先に殺されるのではないかとおびえた。

終戦後、帰国して機能回復のために九回の手術を受けた

終戦二年後の一九四七年(昭和二十二年)一月、竹田さんと母と姉の三人は満州から引き揚げることになった。出発の日、荷物を持って外に出ると、あたり一面は白銀の世界だった。冬の大連は零下十度から十五度まで気温が下がることが多かったと竹田さんは言う。母におぶわれ、足を凍えさせながら、集合場所の小学校へ行くとすでに二千人もの人が集まっていた。学校から五キロ離れたところにある倉庫に移動し、そこで五日間過ごし、やっと船に乗ることができた。二畳ほどの広さで、高さが一メートルほどしかない場所に、家族三人と大きな荷物三つを収納しないといけなかったので、交代で眠った。船の中で幼児が死亡し、水葬されたこともあった。そして、五日間の航海の末、船は佐世保に錨をおろした。翌日の朝、小さな船が二艘迎えにやってきた。

「引揚者の皆さん、長い間、本当にご苦労様でした」という女性の声が響きわたると、あちこちからすすり声が聞こえてきた。消毒のために、DDTの白い粉が荷物の上に大量にかけられた。その後、竹田さん一家は、一時宿泊所を転々とし、割り当てられた東京·国立の引揚者住宅で暮らすことになる。畳もなければ、日も当たらないアパートである。外出することがままならない竹田さんにとっては、毎日が薄暗闇の中での生活だった。

東京で暮らしはじめてから七年が経った。竹田さんはある日、母の頭に白いものが目立ち始めていることに気がつき、家を出る決心をした。二十四歳のときに、初めて東京·小平の病院に入院した。二十四人部屋だった。機能回復のために九回の手術を受けた。それをふりだしに、あちこちの病院や施設を転々としてきた。肋膜炎で大手術をしたり、喀血して結核専門病院にも入った。一九九〇年(平成二年)には気管切開により声を失った。障害を持った人生に絶望し、昼間から酒を飲む生活をしていたこともあった。今の施設にはもう三十年近く暮らしている。「障害者は恋などしてはならない」と言っていた母は四十年前に病死した。たったひとりの肉親の姉は現在、千葉県の老人ホームで暮らしている。