手足が不自由な障害者のマスターべーションの介助はどうだった?

手足が不自由な障害者の介助者

竹田さんが風俗へ行くといっても、もちろんひとりで行けるわけではない。無償で手伝ってくれる介助者が何人かいる。彼が暮らす施設の社会福祉士である佐藤英男さんはそのひとりだ。四十五歳で、人の良さそうな丸い鼻をしている。

竹田さんを外出させることは非常にリスクが大きい。しかし、佐藤さんは、「もしなにかあった場合は私の責任問題になるでしょうね。それなのになんでやるかって?楽しいんですよ。最初こわごわと自信なさそうだった障害者が、晴れ晴れしたいい顔をしてお店から出て来る。その顔を見るだけで満足なんです」となんでもないことのように話す。

マスターべーションの介助

店内までの移動の介助だけではなくて、着替えや入浴も手伝わなくてはいけない。行為の間は待合室で待ち、その後、一緖に帰る。動作のひとつひとつに相当な時間がかかるので、どうしても時間が長くて、料金も高いコースを選ばざるを得ない。佐藤さんは、手足が不自由な障害者の「手」となってマスターべーションの介助をすることもある。「おおっぴらに語られていないだけで、身障者の介助の現場では多くの人がしていることですよ。 べつに珍しいことではありません」

男性が男性のマスターべーションを手伝う。覚悟がないとできないことだと思うが、佐藤さんは「いや、なんてことはありませんよ。特別なことだと思ったことはありません」と言う。そういう自然体で気負うところがないからなのか、佐藤さんはなかなか言い出しにくい性の悩みについても多くの障害者から相談を持ちかけられている。

竹田さんはどうして風俗店へ行く決心をしたのか

竹田さんは佐藤さんに風俗店に連れて行ってもらうが、マスターベーションの介助だけはしてもらわない。なぜか。竹田さんはビデオでこんな言葉を語っていた。「介護を受けるってことは僕らにとっては最大の屈辱なんだ。我慢してるよ。生きるためにね」ところで、五十一歳までセックスの経験がなかった竹田さんは、どうして風俗店へ行く決心をしたのだろうか。「おつきあいしていたひとがなくなったから」震える指で文字をひとつひとつ押していく。「じこで」、「どれくらいおつきあいしていたんですか?」、「ジィー……ヒィ……」文字盤ではなく、全身を使って言葉を絞り出そうとする。「ジュー、ゴ……」、 「十五年ですか?」そう聞くと、竹田さんは親指と人さし指でOKマークをつくり、ニッコリ笑った。

脳性麻痺の障害者としての竹田さんは初めて女性とセックスをした

脳性麻痺障害者の竹田さんに会った

あたりには消毒薬のような匂いが漂っている。十畳ほどの部屋は手前が床張りで、奥が三畳くらいの畳敷きになっている。事務用でよく使われているねずみ色の棚があり、その上には尿瓶が置かれている。ここに竹田芳蔵さんは三十年近く暮らしている。彼は言いたいことを文字盤に書いて用意してくれていた。

たとえ てあしがうごかなくても にんげんのおとことしての よくぼうがあるかぎりはけいざいのゆるす はんいの ことであれば それによって ひごろの ストレスをはっさんさせ あすへの いきる みなもとにするなら それなりのいぎの あることとおもう

竹田さんには声がない。気管切開を三度も繰り返し、喉に穴をあけてそこから酸素を吸入している。一時間半に一度は痰の吸引と、酸素ボンベを交換しなければいけない生活である。何かを話そうとしても、わずかにもれるゼェーゼェーという息の音が聞こえるだけだ。顔を近づけて何度か繰り返し聞いている と、その息が言葉だということがわかる。ただ、何を言っているのかはほとんど理解できない。そこで、車いすの卓上に置かれた文字盤を使って会話することになる。しかし、それも手が不自由で震えるため、なかなか目的の文字にたどり着かない。一文字押すのに数分かかることもある。これだけ書くには、かなりの時間がかかったに違いない。私はゆっくり一文字一文字確かめるように、竹田さんのこれまでの性体験について話を聞いていくことにした。

竹田さんは五十歳のときに、初めて女性とセックスをした

竹田さんは五十歳のときに、初めて女性とセックスをした。池袋の風俗店を回り、十五軒断られ続け、十六軒目でようやく受け入れてくれるところが見つかったのだ。このまま女性を知らずに死にたくない。そう思って、施設の職員に頼んでつれて行ってもらった。店の女性は二十四歲くらいのように見えた。初めて見る女性の体は本当に美しかった。しかし彼女は竹田さんの体を見ると、おびえたように顔をゆがめ、次に哀れむような表情をした。竹田さんは悔しくて、また自分が情けなくて、「このまま帰りたい」と思った。しかし、わざわざ人目を忍んで連れ出してくれた職員に悪いからと、最後まで続けたという―。

「初めてのセックスはどんな気分でしたか」と私は尋ねた。文字盤には「(性器を)いれさせてくれたのはおなさけ」「どーじょーして」という文字が並んだ。そして、切ないように顔をゆがめる。彼が行った店は、ファッションヘルスといって、主に性マッサージを行い、本来は性交はしない。しかし、店の女性が「障害者だから」と同情して、挿入もさせてくれたそうだ。竹田さんは屈辱的だと思いながらも、はじめて女性の肌に触れられたことに心打たれた。しっとりとして、柔らかく、母におぶわれた幼い日が思い出された。

幼い日が思い出された

現在、竹田さんは障害者年金をやりくりしたお金で、年に一回正月か誕生日に、吉原のソープランドへ行くことを楽しみにしている。竹田さんは、二十四時間寝ている間も離さない生命維持装置の酸素ボンベを、そのときだけは外すことに決めている。二時間の行為の間、大きな二本のボンベは邪魔だからだ。

「いき は くるしい おっぱいに こども のように むしゃぶりつくのが すき」死んでしまうリスクもある。「そのとき は そのとき せい は いきる こんぽん やめるわけ にはいかない」竹田芳蔵さんは一九三二年(昭和七年)、栃木県に生まれた。生後まもなく新生児黄疸にかかり、脳性麻痺と診断される。幼い頃から手足が不自由だった。姉ひとり、兄ひとりの三人兄弟の末っ子だ。父親は、竹田さんが母親の胎内で九カ月のときに病で亡くなっていた。竹田さんの人生は、戦争をはじめ、昭和という時代に翻弄されてきた。一九三七年(昭和十二年)七月、母方の叔母を頼り、一家は中国·大連に渡る。竹田さんが大連で初めて目にしたのは、雨にもかかわらず、道を埋めつくす百人以上の群集であった。ちょうどその月に、盧溝橋事件が起こり、八年にも亘る日中戦争が勃発した。

竹田さんは障害を持っていたため、学校に一日も行くことができず、姉や兄の教科書を見て、独学で文字を覚えていった。当時、肢体不自由者のための養護学校は日本に一校しかなく、障害者が教育を受ける機会は少なかった。さらに、その養護学校に軍人がやってきて、青酸カリを配布したという噂まで飛びかった。「働かざるもの食うべからず」と言われていた時代に、障害者の置かれていた立場はことさら弱かった。

大連に移住した四年後、真珠湾攻撃が起こり、太平洋戦争に突入した。兄は大連から列車で七時間ほどの場所にある奉天の部隊に出征し、南方で戦死した。出征の前日、「芳蔵ともお別れだから、よく洗ってあげるぞ」と一緒にお風呂に入ったことが竹田さんには忘れられない思い出になっている。父親の顔を見たことがない竹田さんにとって、兄は父親のような存在だった。

そして終戦。その日、大連は抜けるような青空で、一日中暑かったという。それからは、ソ連が侵攻してくるとか、「女、子どもが殺される」「男は全員シベリアに連れて行かれる」という噂が飛び交い、恐怖から女性は坊主頭にした。竹田さんの家には略奪者も侵入し、家財道具から兄の遺品まで持っていかれてしまった。逃げることのできない竹田さんは真っ先に殺されるのではないかとおびえた。

終戦後、帰国して機能回復のために九回の手術を受けた

終戦二年後の一九四七年(昭和二十二年)一月、竹田さんと母と姉の三人は満州から引き揚げることになった。出発の日、荷物を持って外に出ると、あたり一面は白銀の世界だった。冬の大連は零下十度から十五度まで気温が下がることが多かったと竹田さんは言う。母におぶわれ、足を凍えさせながら、集合場所の小学校へ行くとすでに二千人もの人が集まっていた。学校から五キロ離れたところにある倉庫に移動し、そこで五日間過ごし、やっと船に乗ることができた。二畳ほどの広さで、高さが一メートルほどしかない場所に、家族三人と大きな荷物三つを収納しないといけなかったので、交代で眠った。船の中で幼児が死亡し、水葬されたこともあった。そして、五日間の航海の末、船は佐世保に錨をおろした。翌日の朝、小さな船が二艘迎えにやってきた。

「引揚者の皆さん、長い間、本当にご苦労様でした」という女性の声が響きわたると、あちこちからすすり声が聞こえてきた。消毒のために、DDTの白い粉が荷物の上に大量にかけられた。その後、竹田さん一家は、一時宿泊所を転々とし、割り当てられた東京·国立の引揚者住宅で暮らすことになる。畳もなければ、日も当たらないアパートである。外出することがままならない竹田さんにとっては、毎日が薄暗闇の中での生活だった。

東京で暮らしはじめてから七年が経った。竹田さんはある日、母の頭に白いものが目立ち始めていることに気がつき、家を出る決心をした。二十四歳のときに、初めて東京·小平の病院に入院した。二十四人部屋だった。機能回復のために九回の手術を受けた。それをふりだしに、あちこちの病院や施設を転々としてきた。肋膜炎で大手術をしたり、喀血して結核専門病院にも入った。一九九〇年(平成二年)には気管切開により声を失った。障害を持った人生に絶望し、昼間から酒を飲む生活をしていたこともあった。今の施設にはもう三十年近く暮らしている。「障害者は恋などしてはならない」と言っていた母は四十年前に病死した。たったひとりの肉親の姉は現在、千葉県の老人ホームで暮らしている。